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世界的ヒットメイカーの仕事術とは? ジョシュ・カンビーに学ぶ音楽づくりの最先端 | マイナビニュース

Riku Nakamura

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世界的ヒットメイカーの仕事術とは? ジョシュ・カンビーに学ぶ音楽づくりの最先端

数多のビッグネームに携わってきた世界的ヒットメイカー、ジョシュ・カンビーが日本のavexからソロデビュー。3rdシングル「Worth Missing」を7月3日に配信リリースした。爽やかな歌声に加えて、楽曲制作やプロデュース、楽器演奏、プログラミングやエンジニアリングまで手がける全方位型のニューカマーは、どうやってその才能を磨いてきたのか。電話インタビューで本人を直撃した。

近年のポップ・ミュージックに親しんでいる人なら、ジョシュ・カンビーの名前は知らなくても、彼の仕事にはきっと触れてきたはずだ。USカリフォルニア州アナハイム生まれのジョシュは、南カリフォルニア大学(以下、USC)の音楽ビジネス・プログラムに参加して一年飛び級で卒業後、ビヨンセも手掛けた名匠トビー・ガッドに弟子入り。マドンナ、クリス・ブラウン、アダム・ランバートといった大物から、NUEST、BoAや東方神起、テヨン、NCT2018、中国のクリス・リーやJJリンといったアジア圏の人気アクトまで、プロデューサー/作家として幅広く携わってきた。

さらに、ダンス・ミュージックの世界でも名を馳せてきた彼は、ソロアーティストとしては自ら作詞・作曲・プロデュースを手掛け、ギターやキーボードなどを演奏。ストリーミング時代に対応した繊細なポップソングで、持ち前の美声を披露している。もちろん、その実力は折り紙付き。裏方としてキャリアを積み上げ、新しい世界へ飛び立とうとしているジョシュに、これまでの歩みと音楽づくりの哲学、日本との関係、将来の展望などを語ってもらった。

ジョシュの作曲/プロデュース楽曲を集めたプレイリスト。カイゴやギャランティスの名前が示すように、彼はダンス・ミュージックのシーンとも親和性が高い。

自然の成り行きから、ポップ・ミュージックの最前線へ

―まずは、ここまでの経歴について教えてください。

ジョシュ:どこから話そうか。子供の頃はピアノをやっていて、クラシックピアノを習っていたんだ。だけど譜面を読むのがあんまり得意じゃなくて、割と早くからジャズに転向した。ジャズってインプロが主体だから、誰かが書いた曲を譜面で読んで弾く、というのではなく、音楽を感じながら想像力で対応していくって感じだよね。そっちに転向してから世界が開けて、映像に音楽を付けたり……なんてこともやるようになった。それがハイスクール時代の話。で、実はその創作活動もUSCの音楽ビジネスコースへ進学する際の評価の一環になったんだ。

―そもそも音楽に興味を持ったきっかけは?

ジョシュ:子供の頃、父親がボランティアで、教会で音楽を演奏していたんだ。教会でギターを弾く彼の姿はカッコ良かった。そんな父親だから家でもいつも音楽が流れていて、自然と馴染んでいったんだと思う。そこから、自分で作るのが楽しくなって今に至る感じ。

今年2月に発表されたソロデビューシングル「Sound Of Your Name」のMVは、新潟・妙高高原で撮影された

―その頃は、どんな音楽をよく聴いてたんですか。

ジョシュ:ジャズが好きになった頃によく聴いていたのは、デューク・エリントンやジョージ・ガーシュウィン、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、ルイ・アームストロング……いわゆる音楽の天才、巨匠たち。映画音楽ではジョン・ウィリアムス、ハンス・ジマー、トーマス・ニューマン……その一方で、コールドプレイとかU2、ワンリパブリックなんかも大好きだったし、80年代の音楽もよく聴いてたよ。ティアーズ・フォー・フィアーズとか。家で普段から聴いていたのは、むしろそういう音楽だね。ドラムの音とかタムの音とか、ものすごく大きくてさ!

―80年代ならではのサウンドですよね。そこに気がつくってすごくないですか。10代の子だったらヒット曲を聴いても一緒に歌うとか、そのアーティストの真似をするとかが普通だと思うけど、音の作られ方にそこまで色々思うなんて。

ジョシュ:あはは。割と早くから自分でコンピュータを使ってクリエイトしていたからじゃない? 自分で作る音はこんなにショボいのに、その時代のレコードはなんで音が壮大なんだろう、みたいな。生のドラムの音は知っていたから、それがレコードではこんなに違う響きになるという、その違いが面白いと思った。そこに想像力や芸術性、嗜好やキュレーション、テクノロジーやスキルが働いているわけで。そういうのを(自分の表現に)取り込むのがどんどん面白くなっていったんだ。

自身の影響源をまとめたプレイリスト。ソングライター/プロデューサーとして特に研究した人物として、ワンリパブリックのライアン・テダーを挙げている。「彼らの作品はソングの形をとったポエトリーに近くて、なおかつプロダクションも優れている。プロダクションと歌詞を両立させたバンドって珍しいと思うんだ」

―その後、プロとして活動するようになったのは?

ジョシュ:変な話、いまだにプロの自覚が無かったりするんだけど(笑)。それくらい自然な流れでここまで来てしまって……自分でもどうやってここまできたのかよくわからないんだ。

―なるほど(笑)。

ジョシュ:でも、質問の答えとしては19才からになるのかな。コマーシャルに自分の曲が使われたのが最初だから。「アメリカン・ダンスアイドル」(※)の曲。インターンでいくつかの会社に出入りして、コーヒーを出したりしているうちに、「音楽を作っているんだったら」と曲を聞いてもらう機会が出てきて。気がついたらFOXに採用されて、225ドルの小切手が送られてきた。それが音楽で稼いだ初めてのお金。あの時はびっくりした(笑)。

※FOXテレビで2005年から放送されているダンスオーディション番組(原題:So You Think You Can Dance)

―ちなみに今はおいくつですか。

ジョシュ:僕? 29才。

―お若いんですね。自分で歌うようになったきっかけは?

ジョシュ:あー、それを聞かれると困るんだけど……。

―なぜ(笑)。

ジョシュ:素晴らしいシンガーは最初から歌えるものだし、子供の頃から自分が歌えることを知っていて、スター性も兼ね備えた人が多い。でも僕は全然そういうタイプじゃなかった。教会に通っていたからそこで歌ってはいたし、まったく歌わないわけじゃなかったけど、ポップソングを歌うってなると……もちろん、頑張って上達はしているつもりだけど、スタジオの仕事でアダム・ランバートの歌なんか聴いちゃうとさ。素晴らしい声に自信がなくなるんだよ。

アダム・ランバートが2019年に発表した「Feel Something」で、ジョシュは作曲とプロデュースに携わった

―そこは比べるところじゃないでしょう(笑)。

ジョシュ:さっきの質問に答えると、僕は大学を卒業したあと、プロデューサー兼ソングライターのトビー・ガッドを師匠と仰ぐようになるんだけど、彼はジョン・レジェンドの「All of Me」やビヨンセの「If I Were A Boy」を書いているハンパない人で。彼の現場にソングライターがやってきて、その録音を手伝ったりすることも多かった。

それであるとき、アーミン・ヴァン・ヴューレン(オランダの人気DJ/プロデューサー)がトビーのスタジオにやってきて、ソングライティング・セッションを行なったんだ。でも、アーミンはいわゆるシンガーではないし、その場にいたソングライターも歌えない人ばかりだったから、たまたま居合わせた僕が歌入れすることになった。そうしたら「いい声だからこのまま一緒にやってくれ」という話になり、気がついたら僕はイタリアでMVを撮影していた。それが「Sunny Days」という曲で、ダブル・プラチナムになったり、ラジオで1位になったり……本当に信じられなかったよ(笑)。

―本当に次々と繋がっていくんですね。

ジョシュ:さっき言ったでしょ、自然の成り行きでここまで来たって(笑)。

「Sunny Days」のMVにはジョシュも出演。YouTube再生回数は3800万回を突破

クリエイティヴに活かされた音楽ビジネスの勉強

―トビーのところで働くようになった経緯は?

ジョシュ:トビーとはCraigslistで知り合った。地域の情報サイトっていうのかな。例えば、誰かがソファを手放すとか、中古のピアノを買いたいとか、そんな情報から求人情報まで何でも載ってるんだけど、そこで何となく音楽関係の仕事を探していたら、「グラミー受賞プロデューサーのアシスタント募集」っていうのが見つかって。「絶対にウソでしょ」と思ったんだけど……。

―そうでしょうね(笑)。

ジョシュ:でも、もしかしたらもしかするし、とりあえず履歴書を送ってみた。そうしたら、彼から折り返しのメールが送られてきたんだ。聞き覚えがある名前だったから、すぐにググって「オーマイガー、どうしよう!」となったよ(笑)。そこから4度の面接を経て採用が決まった。以来、彼のファミリーの一員として、何から何まで参加させてもらった。今の僕が知っていることは、ほとんどが彼から教わったことだ。どれだけたくさんの扉を開いてもらったか。

―話が前後しますけど、大学では音楽ビジネスを学んだんですよね?

ジョシュ:うん、ミュージック・インダストリーって名称だったかもしれない。

―そこではどんなことを勉強したんですか?

ジョシュ:大学に入学してオリエンテーリングで学内を回っているうちに、たまたま音楽ビジネス・プログラムの説明会に行き当たって。申込書の提出期限もその日が最終日だったから、そのままそこに提出したっていう。

―またも偶然の成り行き(笑)。

ジョシュ:もちろん音楽が好きだから、その周辺にいたいという気持ちもあったよ。当時は音楽制作で食べていけるとは思えなかったし、音楽絡みで家賃を払えるくらい稼ぐとしたら、ビジネスに関わることぐらいしかないかなと思って、

そこで学んだのは契約等々の法務とマーケティングや会計、資金繰りについて。エンジニアリングや技術関係のクラスもいくつかあったけど、クリエイティブな授業ではなかった。でも、結果的にはそのおかげで、自由な時間によりクリエイティヴな形で音楽に取り組むことができたんだ。ビジネス関係の宿題を家で片付けたあと、夜中の2時ぐらいまで好きな音楽を作っていたことが、今の仕事に繋がっているんだから。

―じゃあ、音楽の創作に関しては独学だった?

ジョシュ:ほぼそうだね。ほら、YouTubeがある世の中では、全てを自分の手柄にしちゃいけないから(笑)。

―YouTube大学ってやつですね。

ジョシュ:まさに。僕も創作に関しては間違いなく、何よりもYouTube仕込みだ。でも一方で、トビーとは昔ながらの師弟関係だし、彼から実地で教わったことの方がYouTubeで学んだことの10倍は大きいよ。彼にくっついて、クリエイティブな人たちと同じ空間にいることができたし、みんな親切に教えてくれた。僕は本当に感謝している。YouTubeにも感謝してるけど(笑)。

―具体的に、トビーとの現場ではどんなことを学んだんですか?

ジョシュ:アシスタントとしての初仕事は、たしかトビーのカタログの整理だった。未発表曲が山のようにあって、それを音楽出版社に売り込む準備として素材の整理をするんだけど、トビーって本当にすごい人たちとコラボレーションしているから。曲もバラエティに富んでいて、たぶんマジで1000曲くらいあったと思う。それを逐一聴いて確認しながらの作業だから、本当に圧倒されたよ。そして、その作業を通じて学んだのは、いわゆるヒット曲がひとつ出るまでには、トビーをしても10とか20とか鳴かず飛ばずの曲があるんだってこと。

―それは大きな発見ですね。そこから徐々に制作にも関わるようになっていった?

ジョシュ:そう。最初はビジネス面の手伝いだったのが、スタジオを手伝うようになり、ディズニーのプロダクションなんかは早くから関わっていたんだ。その後、一緒に曲を書くようにもなって、『Xファクター』のだったり、ラテンのアーティストのだったり……そんな感じで順調に進んで、やがて一緒にマドンナをプロデュースするに至ってようやく、「これはマジだぞ」と思うようになった(笑)。

マイク・タイソンの参加も話題となった、マドンナの楽曲「Iconic」(2015年)にトビー・ガッドと参加

「裏方」として成功するには? 音楽づくりの哲学

―ところで今更ですけど、ソングライターってどんなことをやる仕事なんですか?

ジョシュ:えっと(笑)。

―というのも、今日のヒットチャートでは、一つの曲に複数の作家が参加している曲の方が一般的ですよね。さっき話に出た「Sunny Days」も、あなたとトビー、アーミン・ヴァン・ブーレンの他に、ソングライターやプロデューサーとして何人かクレジットされています。

ジョシュ:そうだね。

―そんなふうにチームを編成する「コーライティング」が曲づくりのデフォルトになってから、作曲とプロデュースの境界線がちょっと曖昧になっているような気もして。そういうなかで、ソングライターの役割とはどういったものなんでしょう?

ジョシュ:もしかしたら、僕が法務の勉強をしすぎたのかもしれないけど……著作権の観点から考えると、「ソングライティング」とは歌詞と歌メロを書くということ。「ソング」とは歌詞とメロディのことだ。例えば「虹の彼方に」というソングは、ストリングスでもギターでもなく、正に「somewhere over the rainbow〜♪」っていう、あの歌詞と歌メロのことだ。だからソングライターとは、その部分を担っている人のことだね。

もちろん、プロデューサーや(曲の)トラックを作った人、演奏したミュージシャン等々、その他の要素を担っている人達がみんないい仕事をしてこその「ソング」なのは間違いない。ただ、今日の定義は少し幅が広がりすぎている気はする。プロデューサーって仕事はそれ自体が素晴らしくて、誰にでもできることじゃないんだから、曲を書いたというクレジットまでもらわなくてもいいんじゃないかな。それが僕の見解だ。

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Josh Cumbee(@joshcumbeemusic)がシェアした投稿 – 2019年 4月月16日午前7時06分PDT

―ソロとして自分の曲を作るのと、チームの一員として誰かの曲を作るのでは全然違うものですか?

ジョシュ:場合にもよるかな。誰かとコラボレーションする時は、具体的に要求されるものがあるから、ビートを提供することもあれば音楽的なアイディアを出す時もあるし、あるいは歌詞を手伝う時もある。いつもは3人も4人も制作者がいる中の1人として仕事をしているから、自分なりの意見やアイディアがあっても、それが採用されるとは限らない……というか、そもそも自分の考えが(曲に)最も相応しいとは限らないので、みんなの意見を聞いて「なるほどねー」と学んでいるわけ。

かたや自分の音楽を作る時は、そうやって学んだことをどんどん生かしていく。例えば「Brave Enough」っていうシングルでは”もう一度傷つく勇気を持てば、前に踏み出せる”という歌詞がまず先にあって、これが映画だとしたら、どんな場面でどんな映像だろうか……っていうふうにイメージを膨らませていったんだ。

―そんなふうに、自分のなかで映像が浮かぶことはよくあること?

ジョシュ:そうだね。ただ、思っていたのと全然違うところにたどり着く場合もある。僕が思うに、曲を書くうえで一番見失ってはいけないのは、目指す先ではなくて、曲を書き始めた時の気持ち。「自分でも理解できない、この気持ちを伝えたかったから……」っていう動機が必ずあるはずで、それを最後まで見失わずに書ければ良い曲になるはずだよ。

2ndシングル「Brave Enough」は、人恋しいクリスマスイブに予期せず学ぶことになった人生の教訓を、アナログシンセと独特なパーカッションで描いた楽曲

―ちなみに、ソングライティングとスタジオ作業のどっちが好きとかあります?

ジョシュ:曲を書くのは、たぶん僕にとってカタルシスなんだと思う。自分で歌う曲なら、そこはひとりでやりたい。いわばセラピー的な行為だね。それに対して、音作りのプロセスはとにかく楽しい。僕はとんでもないオタクだから、音をいじってたらいつの間にか何時間も経っていたりする。良い音ができると「こいつはクールだ!」って、スタジオでひとり飛んだり跳ねたり踊ったりしてるんだ(笑)。

―プロデューサー、ソングライター、シンガーなどいくつも帽子を被りこなしていますが、自分の肩書きは何だと認識していますか。

ジョシュ:僕としては、その時々で曲の求めに応えられる存在でいたいと思っている。複数が関わるプロジェクトであれば、僕の出番は少ないかもしれないけれども、その狭いなかで求められる最大限を発揮して曲を良いものにしたい。そのなかにトビーみたいな人がいたら、彼が能力を発揮できる環境を整えるのも僕にできる仕事だ。一方、自分自身のプロジェクトであれば、このクレイジーな脳味噌をどう回転させたら良いものができて、それが仲間やレーベルやマネージメントにどんな作用を及ぼすかを考えている。

―そこまで!?

ジョシュ:僕の周囲には、ここまでずっと付き合ってくれた、愛とリスペクトで繋がっている仲間が大勢いるんでね。自分が作った作品が、彼らの仕事にも良い影響を与えられたら嬉しいじゃない?

―そんなふうに考えられるのは、やはり音楽制作の裏も面も見てきたからですか。ソングライターを目指す若者がいたとしても、いきなりそこまでは想像が及ばないでしょう。

ジョシュ:うーん……でも、プロセスを楽しめないと続かないんじゃないかな。ソングライターに限らず、この世界で燃え尽きてしまった人を何人も見てきたけど、そういう人達は結果しか見ていなかったんだろうね。まあ、誰だって成功したいに決まってるけど、仕事の大半はプロセスでできているわけで、そこを楽しめないと辛いと思う。1カ月間、毎日10時間ぐらいスタジオに詰めて30曲書いたとして、それらがレーベルや出版社から全て拒絶されたとしても、「書いてて楽しかったからいいや」と思える人は正しい道を進んでいる。そう思えない人は、やり方をどこか変えなければいけないだろう。成功しなくても楽しめるかどうかがポイントだね。

日本との関係、ソロとして描く感情の機微

―昨年、avexとレコーディング・アーティスト契約を結んだそうですが、日本のレーベルとの関係はどのように始まったんですか?

ジョシュ:実はマネージャーが20年くらい前、日本に住んでいて。彼はその頃にavexと組んで、Velfarre(六本木のクラブ、2006年閉鎖)のアフターアワーズ・パーティをスタートさせたりしたそうだ。

―サイバートランスとかが流行ってた頃ですね、懐かしい。

ジョシュ:その頃の繋がりは今も続いていて。avex発でグローバル展開していく洋楽アーティストを探していたところに、(マネージャーが)僕の曲をプレゼンしてくれたというわけ。

最近のアメリカでは、レーベルがアーティストをほとんど育てなくなった。僕の友人周りでも、契約できて喜んでいたのに、放ったらかしのまま年単位で時間が過ぎていったケースを結構聞く。そんなご時世だからこそ、avexの姿勢に好感を抱いたんだ。レーベルとしての実績もあるし、アーティストをローンチから継続的にサポートしている。そういうところから声がかかったのは光栄だよ。僕にとってこの新しい関係は、人生最大のバズのひとつだ。

―じゃあマネージャーさんを通じて、日本には馴染みがある?

ジョシュ:彼は大阪の「MUSIC CIRCUS」ってフェスの仕事もしているんだ。だから日本の話はよく聞かされていた。「日本は地球上で最高に驚異的な場所だ。未来って感じがする。絶対に圧倒されるぞ」って。行ってみたらその通りだったよ(笑)。一度行ったらもう夢中。日本は最高だね。カルチャーも魅力的だし、言葉も思ったほど難しくなさそうだ。イマ、ニホンゴヲ、ベンキョウシテイマス!

ー話している声のトーンは快活ですが、ソロでの歌声は儚く繊細で、楽曲にもパーソナルな内省を感じます。これまで発表してきたシングルについて聞かせてください。

ジョシュ:「Sound Of You Name」は、大親友のジェイ・デントンと一緒に書いたんだ。たまたまお互い辛いことがあって傷ついていた時期に、別れた誰かの名前を思いがけないところでフッと耳にすると、ものすごく動揺するよねって話をして。スターバックスで注文した人の名前が呼ばれたときに、思わずドキッとして振り返ってしまったり。名前と一緒に蘇る記憶が辛かったり嬉しかったりで、押しつぶされそうに重たい……なんて話を2人で延々、何日も繰り返ししてたんだ。

―辛い歌が多いみたいですね。「Brave Enough」も乗り越える歌だし。

ジョシュ:「Worth Missing」もそういう類のテーマだね。大事な人を失った時に、それを嘆いたり恨んだりして、いつかそれを乗り越えたあと、またその人や思い出を愛おしく思えるようになる……そういうプロセスって、人として味わえる最も美しい感情の移り変わりだと思うんだ。僕はたまたま曲を書けるから、それを形にして表現できるのは本当に素敵なこと。別に誰かの指針や道標になろうとは思わないけど、「僕の場合はこうだったよ」というね。

「Worth Missing」のMVは東京のストリートで撮影。「僕が思う東京はすごく慌ただしくて、目が回りそうで、人が多くて、なのに不思議と静かで、混沌としているのに穏やかで……そういう感覚をカメラで捉えることができたら、すごく特別なものになりそうな気がしたんだ。僕のアイディアを踏まえつつ、監督がコンセプトをまとめてくれた」

―今後はアルバムも期待できそうですか。

ジョシュ:とりあえず、他にもシングルを発表する予定だよ。ただ、こういう状況だからね。状況を鑑みて調整し直さなければならないかもしれない。今の世界は余裕がないからさ。誰もがニュースを見ながら不安になっているところに、隅っこから飛び出して「こっち見て! 新しい曲を出したんだよ!」とはしゃぐ人にはなりたくない(笑)。

―でも、そんな状況だからこそ、曲を聴いて癒される人も多いと思いますよ。

ジョシュ:ありがとう。その話でいうと、少し前に(1930年代の)大恐慌時代の音楽や映画に興味を持って、いくつか本を読んでみたんだ。なんでも大恐慌を脱け出した直後、アメリカでは毎週8000万人が映画館に足を運んだらしい。

―へえ!

ジョシュ:現実のものではない何かに、感情的な繋がりを求めたわけだ。とてつもなく悪いことが起こったあと、「世界が変わってしまった!」という当初の衝撃を乗り越えたら、見えなくなっていた素敵なものがまた見えてくるんだろうね。そして大丈夫だって思えるようになっていく……そこに至るまでの優れた逃避を、音楽は提供しうると思う。

―最後に、何か言っておきたいことがあれば。

ジョシュ:まずはぜひ、僕の曲を聴いてみてほしい。気に入ってもらえたら嬉しいけど、そうじゃなくてもレスポンスをもらえると有り難い。僕は感想を聞くのが楽しみなんだ。気に入らないという声があっても平気。次はもっと頑張るから(笑)。


ジョシュ・カンビー
3rdシングル「Worth Missing」
配信リンク:https://avex.lnk.to/JoshCumbee703


2ndシングル「Brave Enough」
配信リンク:https://avex.lnk.to/JoshCumbee0313

1stシングル「Sound Of Your Name」
配信リンク:https://avex.lnk.to/JoshCumbee0214

ジョシュ・カンビー日本公式サイト:https://joshcumbee.jp/

本記事は「Rolling Stone Japan」から提供を受けております。著作権は提供各社に帰属します。



著者: ” — news.mynavi.jp

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1万5000人が死亡した大阪空襲 語られてこなかった朝鮮人の被害体験 –

Riku Nakamura

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梅田方面からも大勢の人が逃げてきた。時刻は午前10時ごろ。爆撃で空は真っ赤になったという。

「梅田の方向、空が真っ赤ですわ。夕焼けみたいでしたよ。(それを見ながら)みな、『うちの家はもうないわ』って言い、空襲警報が解除されて三々五々、帰ったんです。別の日には、道で下向いて倒れている老人を見ました。その方、焼かれて真っ赤になってる。少しだけ残った服は黒焦げ。焼夷弾でしょう」

「大阪大空襲の体験を語る会」が収集した大阪大空襲の体験画(提供:新聞うずみ火)

大阪大空襲後の心斎橋・島之内付近。三津国民学校の屋上から難波方面をみる。中央遠方は難波高島屋。1945年3月14日ごろの撮影と思われる(提供:公益財団法人・大阪国際平和センター、前田日登美氏撮影)

空襲体験 苦難の「ワン・オブ・ゼム」

大阪大空襲で犠牲になった朝鮮人は、当時の人口統計などから2000人弱といわれる。しかし、朝鮮人の空襲体験は証言集にもほとんどない。「大阪空襲被災者運動資料研究会」の横山篤夫さん(79)はこう説明する。

「朝鮮人には、日本本土に渡ってくる時に故郷を捨てなければいけないとか、日本に着いてからの差別とか、生きていく上で大きな葛藤や苦労があった。そして、何とか生活できるようになったところに空襲です。過酷な経験でした。ようやく太平洋戦争が終わって故郷に帰ろうとしたら、(1950年に)朝鮮戦争が始まって、帰れなくなったわけです」

横山さんによると、大阪空襲を体験した人たちでつくる市民団体「大阪大空襲の体験を語る会」は450編もの証言を記録している。それなのに、証言は全員日本人で朝鮮人は1人もいない。

横山篤夫さん(左)。金さんから詳しく空襲体験を聞く

朝鮮戦争が終わると、日本に住む朝鮮人たちも「朝鮮半島の北側の出身か、南側か」「韓国と北朝鮮、どっちを支持するか」で対立するようになった。対立が抗争に転じ、死者が出たこともある。

「そういう経験をいくつもしているから、朝鮮人の空襲体験は、大変な出来事のワン・オブ・ゼムになるわけです。日本人も厳しい生活を送っていたけれど、空襲が一番大変な出来事だった。でも、朝鮮人にとって、空襲は数ある大変な出来事の一つにすぎない。だから、(各地にあった)証言の収集活動に朝鮮人は参加しなかったんじゃないか。そう感じています」

朝鮮人が1939年から「創氏改名」を強いられ、日本風の名前だったことも影響している。「語る会」が集めた450編の体験に朝鮮人はいないが、各地の体験集の中には「日本人」の話として埋もれている可能性がある。

大阪空襲をめぐっては、被災者や犠牲者の遺族らが補償を求めて国相手の訴訟を起こし、耳目を集めたことがある。提訴は2008年。原告に朝鮮人はいなかったが、「軍人・軍属と遺族らには恩給や遺族年金などがあるのに、民間の犠牲者にないのはおかしい」「国に戦争の後始末をさせたい」などと訴えた。訴訟は2014年に最高裁で原告敗訴が確定した。

判決から今年で6年、多くの空襲体験者が亡くなり、体験者から直接証言を聞くことはいよいよ難しくなってきた。

「大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会」の資料集。朝鮮人の体験収集を進めている

闇市を頼りに生き延びた

金さんの話に戻ろう。

敗戦の直前、金さんは母と妹の3人で富山県に疎開した。日本が降伏し、数カ月後に戻ると、東西南北、見渡す限りの焼け野原。大阪駅周辺は8階建ての阪急百貨店と4階建ての曽根崎警察署しか残っていない。大半のビルや家屋は壊滅し、駅と駅の間を見通せた。大阪駅周辺には闇市が広がっていた。ラジオやオンボロの自転車のほか、「闇米」などの食料品も売られており、朝鮮人や台湾人もたくさんいたという。

金さんの父も闇市でモヤシやボロなどを売り、生活費に充てた。

「家では豚も飼ってました。5、6匹です。大きく育てて売るんです。さらに母は西明石まで行って闇米を仕入れ、私が大阪で自転車に積み替えて、沖縄の人がやっている店に持っていく。18リットルの一斗缶を10個とか。毎日です」

大阪駅前の闇市(1946年7月、写真:毎日新聞社/アフロ)

母は何度も闇米販売で検挙された。5歳年上の兄は、朝鮮戦争が終わった後、結核で他界。その直前には叔父や叔母も結核で亡くなっていた。金さん自身も高校生の頃は物売りの手伝いなどをしていたが、やがて一家は生活保護を支えに生きることになる。最下層の生活。そこには大勢の朝鮮人がいたという。同級生に「朝鮮」と言われ、殴ったこともある。

「お金があればね……。貧しいから場末のボロ病院しか行けず、兄さんらは死んだんです」

時代は1950年代の後半。日本経済は朝鮮戦争による「特需」で復興を遂げ、56年の経済白書は「もはや戦後ではない」とうたっていた。

「私は小学校から高校までは通名(日本名)で通しました。帰国? 考えませんでしたな。とにかく、その日その日の生活で精いっぱい。弁護士になりたかったけど、法学部に行けず、大阪外国語大学でモンゴル語をやりましてな。もっとも(当時は)日本国籍を取らないと、弁護士になれないことも知らんかったですが」

資料を広げ、体験を語る金さん

「日本人に負けたらあかん」

80歳の呉時宗(オ・シジョン)さんは大阪で生まれ、西成で育った。大阪大空襲を経験したのは4歳の時。語ってくれた内容から、1945年3月の第1次大空襲だったと思われる。無差別空爆は深夜0時前から始まった。

「母と妹と、商店街を走って逃げましてな。父は警防団員で火を消していたので現場に残ってたと思います。空がとにかく昼間のように真っ赤だった。昔、大阪の夕焼けはきれいやったけど、その夕焼けよりもまだ赤い。母には以前から『万が一迷子になったら、みんなが走ってる方に一緒に逃げるように』と言われていた。あの晩は迷子にならず、幸いにも家は焼けなかったんです」

その頃、夜中に何度も空襲警報のサイレンが鳴った。うなるような、低いサイレン音。幼い子どもに怖くないはずがない。

呉時宗さん

「寝る時間の空襲? 何べんもです。空襲警報が鳴って、防空壕に入って今晩も壕に泊まらなあかんな、いうて。(ある時)防空壕にバーンと穴が開いて、そこから親戚の叔父さんが顔を出して外を見てね。父が『逃げー』って。穴が真っ赤になって、火が落ちてくる。ほんで、みんな飛び出して、走って逃げてね。よう覚えてる」

ただし、呉さんにとっても、空襲体験はワン・オブ・ゼムでしかない。

第1次大空襲の後、呉さんは母・妹とともに、琵琶湖に面した町に疎開したが、おかずもみそ汁もない。イナゴを捕って焼いて食べたり、イモのつるを食べたり。疎開先から帰る時は、母が駅でスリに遭い、大事なお金を失った。

戦後すぐ、父は石鹸工場を起こし、次に釘工場を経営し、やがてアメ製造を手掛けたという。しかし、アメ工場も失敗し、差し押さえに遭遇。結局、戦前と同様、父は靴職人になったが、1953年に38歳で病没した。残された32歳の母は、困窮者の多い西成や釜ケ崎エリアで手間仕事を続けながら、子ども5人を育てた。

戦災孤児の写真に見入る人たち。孤児は養父母を求めていた。このような掲示板は全国各地に立ち並んだ(1950年5月、写真:毎日新聞社/アフロ)

呉さん自身は、戦後に「朝鮮人」を意識するようになる。在日本朝鮮人連盟(1945〜49年、朝連)の支部があちこちにできたことも、民族意識を高揚させた。

「戦前は朝鮮人と日本人、一緒に仲良く遊んでおったけど、戦後しばらくして『朝鮮、朝鮮』って言われるようになった。そんな奴とは、よくけんかしたね。『日本人に負けたらあかん』と、朝鮮の青年たちはボクシングジムをつくってたわ。僕もジムへ連れていかれ、大きなグローブをはめて練習しました」

当時の傷が眼の付近などに残っている。「しょっちゅう血を流してた。けんかばっかり」と呉さん。なぜ、日本人に対する対抗心が、そんなにも強まったのだろうか。

「朝連ができて、『自分は朝鮮人だ』という意識が出て。気づいたら、朝鮮人への悪口とか、いっぱいある。ニンニク臭いとか。大人やったら差別や人権問題として考えるけど、子どもはそんなこと考えへん。『朝鮮』って言われただけで腹が立つ。若いから。上級生に誰かがやられたら、呼びつけてコテンパンにして。大人になってからは、商売でとにかく金儲けしようと必死でした。負けたらあかんと」

けんかに明け暮れながらも、呉さんの高校の成績はトップクラスだった。しかし、毎回のように学費滞納者として名前が張り出される。それが嫌だったのと、家族の命は自分が守るしかないと思い、高校を中退した。以後は職を転々としながら、「とにかく金儲けだ」と戦後を疾走。商売の道を走っていく。

大阪大空襲で焼け野原になった難波地区。中央は難波高島屋。戦後、街は大発展し、空襲の面影はどこにもない

大阪空襲という幼少期の記憶から始まった人生。それを振り返り、呉さんはこう言った。

「僕らは戦後しばらく、国籍がなかったんです。1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効と同時に、僕らの(日本)国籍は剥奪されてしまった。(1965年の日韓国交回復で韓国籍を認められるまで)僕らには国籍も何もあらへんかった。大阪空襲の時も含めて、それまでは『日本人』やったのに……。今、(韓国籍を得ていない)在日にとっては、住民基本台帳に記された『朝鮮』は国籍ではなく、ただの記号です」

祖父を本名で記録してほしい

最後にもう1人、朝鮮人の男性に触れておこう。金偵文さん、81歳。1938年に大阪で生まれた。大阪空襲が激しくなる前に宮崎県へ疎開し、自身は空襲の被災者ではない。しかし、45年6月7日の第3次大空襲で祖父を亡くした。

戦時中、金さんは「金谷」と名乗っていた。自宅に近い「崇禅寺」の過去帳には、祖父について次のように記されている。

「金谷富彦 51歳 男 (身元確認者)長男・孝司 (住所)山口町89 (死因)爆死」

公益財団法人・大阪国際平和センター(ピースおおさか)が施設内に設けた「刻の庭」の銘板にも、金さんの祖父が「金谷富彦」として刻まれている。大阪で戦争の犠牲になった人々の一人として。これらについて金さんは納得しておらず、祖父の日本名を本名の「金麗禎(キム・ヨジュン)」に改めるよう要望している。

ピースおおさか「刻の庭」の銘板。中央に「金谷富彦」の名前(撮影:文箭祥人)

「人間は、本名をかき消されたらその存在がないんです。名前を元に戻さないといけない。歴史の中でいろいろなことがあったけど、それを正しく元に戻さないといけない。人間の尊厳に関する根本的な問題だと思うんです。私の祖父一人だけじゃなく、それ以外の人も、生まれた時に親からもらった本名で記録してもらいたいと考えているんです」

ピースおおさかの「刻の庭」

鈴木祐太(すずき・ゆうた)
1981年生まれ。ジャーナリスト。フロントラインプレス(Frontline Press)所属。

この記事へのご感想やご意見、または「Yahoo!ニュース 特集」で今後取り上げてほしいテーマをお寄せください。



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仕事のニュース

【ブリヂストン】「ブリヂストンさん、36年間ありがとうございました。」 – テニス365 | tennis365.net

Riku Nakamura

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■テニスGEEK通信(TENNIS GEEK NEWS)とは
テニスギアの「モノ」や「コト」を、深堀し、マニアックに、そしてGEEK(ヲタク)にお届けするコラムです。

ウインザーラケットショップ池袋店スタッフの中居が独自の目線で話題の商品を紹介します。

テニスに関する仕事をして30数年になる大ベテランですが、まだまだヤル気満々でテニスコートに立っているシニアプレーヤーです。
———————–
「ブリヂストンさん、36年間ありがとうございました。」

ブリヂストンが年内(2020年)をもってテニス事業から撤退することを発表しましたが、私がテニス関係の仕事についたのが1983年でブリヂストンがテニス事業をスタートさせたのが1984年でほぼほぼ同じ時間を共有してきたのと、個人的にもブリヂストンのIさんとダブルスのペアを組んでいたことがあったりと、ラケット、シューズ、ボールをヘビーに使わせていただいたので、思い出を振り返ってみようと思います。

ブリヂストンは創業者の石橋さんの名前を逆さまに英語にしたのは、知っている方も多いと思いますが、創業時は「ブリッヂストンタイヤ」という名称でした。

文字変換の間違いで「ブリジストン」となっていることがありますが、キーボード上では「J I」ではなく「D I」と打ち込んでください。

1984年にテニス事業に参入し、テニスラケットのB9とテニスボールのXT-8が発売されました。翌年に発売したB10/01は福井烈さんが使用し、大ヒットしグッドデザイン賞も受賞しました。

B10/01、B10/02、B10/03、B10MID、B10RなどB10シリーズでブリヂストンのテニスラケットはどんどん市場を広げて行き、硬派なテニスプレーヤーから支持される様になっていきました。

厚ラケ全盛の中発売したフラットフレーム設計のRV-1は、薄いフレームでも厚ラケに負けないパワーが出る画期的なラケットでした。

フラットフレームとは、普通のラケットにあるグロメットがはまる凹型の溝がなく、フラットな状態のフレームに全周繋がったバンパーグロメットを装着するもので、溝がないために内側に撓む動きが大きくなり、包み込んでから弾き出す画期的な構造でした。

新しいブランドながら、安易に厚ラケをコピーするのではなく、独創的な発想で勝負できるラケットメーカーになったのです。

アンチ厚ラケの方も多く、ブリヂストンの知名度は上がっていきました。

現役時代の福井さんは、日本ランキング1位を9年間続けた無敵の選手で、引退した後にユーザーイベントなどで大変お世話になりました。

引退して10年くらい経った時に、あまりにも動きが良いので、聞いたことがあります。

中居「今でも現役に復帰したら、日本のトップを取れるんじゃないですか」
福井さん「誰も見たいと思わないでしょう」

きっと自信はあったと思います。

ブリヂストンラケットを使用する選手も増えてきて、橘清孝プロ、小泉幸枝プロ、神尾米プロなどを輩出しました。

橘プロは1987年にデビスカップ代表になっており、長きに渡って活躍される選手でした。

小泉プロは、元日本ランキング4位で、全日本ベテランの40歳以上5連覇、45歳以上5連覇、50歳以上5連覇、55歳以上5連覇、60歳以上2連覇と22連覇を継続中で、それだけでも大変な記録なのですが、22年間、1セットも落としてないのが凄いことです。

もはや、同年代のライバルはナブラチロワぐらいではないでしょうか。

神尾プロは、世界ランキング24位と輝かしい成績を残した選手ですが、同時期に伊達公子さん、沢松奈生子さんが活躍していたので3番手の選手となっていました。怪我などもあり25歳の若さで引退しました。

引退後もブリヂストンと関わりを持ち、メディアの仕事や後進の育成に努めています。

大御所の田村伸也さんにも大変お世話になりました。

教え魔と言う言葉がよく似合う方で、いつもいつも熱いレッスンをしてくださいまして、終了時間が過ぎても話が終わらないのは日常茶飯事でした。

こんな逸話があります、レッスン終了後に飛行機で移動しないといけなかったのですが、その日はいつも以上に熱くなってしまい、結局、飛行機に間に合わなくなってしまったというのです。

それくらい熱いレッスンをされていたということです。
フラットフレーム設定の続編として、RZプロ、RZ、ZD-V、ZD-R、RV110R、RV100Tなどが発売され、自分も大好きだったBX、BXプロと続き、1994年に発売したプロビームはブリヂストン史上一番記憶に残るラケットとして今でも語り継がれています。

スロートに1本横バーを入れ、I型断面構造を採用し、電車の線路の様なH型にする事で、ねじれに対して非常に強い構造になり、ボールヒット時のブレを極限まで抑えることに成功しました。

伝説となったプロビームの魂を受け継いで2005年に発売されたXブレードは2020年まで続き、XブレードBX、XブレードRZで終焉を迎えます。

2012年に発売された4代目Xブレードに採用されたセプトングリップは画期的なアイデアでした。

通常のラケットのグリップは、、ラケット本体のカーボンの上にウレタンを八角形に成型しエンドキャップで蓋をする様に被せるのですが、セプトングリップは、特殊なゴムとプラスチックでエンドキャップを一体成型し、カーボンの上から差し込みます。

エンドキャップのぐらつきは一切ありません。

「BX」「RZ」と過去にヒットしたラケットのネーミングを持ってきたのはブリヂストンファンへのオマージュだったのかもしれませんね。

36年間、ラケット造りに一貫していたことは、ブームに左右されずに、ユーザー目線の打ちやすいラケットを妥協せずに造っていたことです。
ミーハーなラケットは造らず、硬派な印象があります。

ボールに関しても「XT-8」「ツアープロ」「NX1」はファンが多く、これじゃないと困ると思っている方も多いと思います。

XT-8の思い出は、やはり「毎トー」です。学生の頃からから、夏の大会と言えば毎トーで、毎トーと言えばXT-8でした。

大変レベルが高く、早稲田の学生に当たったり、その後にプロになるジュニアに当たったり、ベテランになって出た大会では1回戦でシード選手に当たったり、負けてる記憶しかありませんが、良い思い出です。

真夏の大会で3セットマッチなので、ファイナルセットで記憶がなくなることもありました。
また、大会使用球のXT-8を持参する草トーがあったりして、テニスバッグに必ず1缶入れていたのが「XT-8」でした。

最後に、記念モデルラケットとして、形状はプロビーム、中身はXブレードBX、デザインは30周年記念で発売したBLACK×GOLDのXブレード310リミテッドで是非発売してください。

絶対買います。

36年間ありがとうございました。

>>その他GEEK通信の記事はこちら<<


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ビジネス特集 飛ぶように売れる豪華クルーザー ~コロナが映し出す格差 | 新型コロナ 経済影響

Riku Nakamura

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飛ぶように売れる豪華クルーザー ~コロナが映し出す格差
今、何十億円もするクルーザーが売れているという。新型コロナウイルスの感染拡大によって過去最悪の景気悪化に苦しむアメリカの話しだ。

「新型コロナはすべての人に等しく降りかかっているわけではない。所得の低いサービス業で働く人たちにより重くのしかかっている」
FRB=連邦準備制度理事会のパウエル議長は、コロナ禍をきっかけにした経済格差の拡大に強い警鐘を鳴らす。感染者が世界で最も多い500万人に上るアメリカで、いま何が起きているのか、取材した。(ワシントン支局記者 吉武洋輔)

売れ筋は60億円

夏の旅行シーズンを迎えるアメリカ。東部のロードアイランド州に、海に囲まれたニューポートという高級リゾート地がある。黒船で日本に来航したペリーの出身地としても知られる。

取材に訪れて真っ先に目に飛び込んできたのが、停泊中の100隻を超えるクルーザー。この地でクルーザーのディーラーをしているマーク・エリオットさんは上機嫌だ。

マーク・エリオットさん
「飛ぶように売れていますよ」

新型コロナウイルスの影響で3月は売り上げが減少したが、6月の売り上げはそこから20%上昇したという。

売れ筋の価格帯は実に10億円から60億円。驚くばかりだが、顧客はヘッジファンドや不動産会社のオーナー、大企業の経営者など。売れている理由は「安全な場所だから」とのことだ。

旅客機や大型船と違って、家族など少ないグループで利用できる利点がある。

最近売れたというクルーザーを見せてもらった。6室のベットルーム付きで75億円。高性能の空気清浄機も複数完備されているという。中を見たいと頼んだが、清潔さを保つため他人を入れるのは無理だと断られた。

アメリカでは、コロナをきっかけにプライベートジェットのリースや販売も好調だという話も聞いた。そこには確実に“別世界”が存在した。

金持ちは、より金持ちに

エリオットさん
「私のビジネスは株式市場に直結している」

超高額品が売れる背景にあるのは、株高だ。3月に1万8000ドル台まで暴落したダウ平均株価は、4月からみるみる上昇。過去最悪の経済打撃(4~6月GDP ー32%)や感染の再拡大に苦しむ実体経済をよそに、コロナ前の9割の水準となる2万7000ドル台まで値を戻している(8月11日の終値)。

300兆円にのぼる緊急の経済対策とFRBの大規模な金融緩和策が要因だ。異例の政策は失業者や中小企業を支えた。ただそれ以上に、より多くの株や信用力を持つ者が得をする。そんな世界をつくったのかもしれない。

パウエル議長が警鐘を鳴らす理由も、そこにあるだろう。

ブルームバーグ通信が発表するビリオネア指数という指標では、世界の総資産の上位10人中、8人がアメリカ人だ。アマゾンのベゾスCEOやフェイスブックのザッカーバーグCEOらが名を連ねる。

このうち7人の8月時点の総資産はことし初めよりも増加している。増加額は合わせて18兆円。金持ちは、より金持ちになっている。

失業が格差を助長する

コウリープリンスさん
「突然、メールで解雇を通知されました」

東部メリーランド州のボルティモアに暮らすモーガン・コウリープリンスさん(26)は、3月中旬、勤め先のレストランから解雇を言い渡された。

大学卒業から3年半。現場マネージャーも任され、愛着のある職場だった。その後、店は持ち帰りのみで営業を再開したが、職場復帰の声はかかっていない。

アメリカでは、感染拡大の直後、年収4万ドル(420万円)を下回る人の39%が仕事を失った(FRB調査)。全体の失業率は10%台なので、所得の低い人ほど職を失っていることがわかる。

とりわけ懸念されているのが、こうした人たちの雇用の受け皿となってきたレストラン、ホテル、映画館などの接客サービスだ。ニューヨークでは、非常事態宣言が出てから5か月がたった今も店内飲食が禁止され、従業員を雇う動きは鈍い。

コウリープリンスさんは失業保険で生活費や家賃をまかなっているが、学生ローンの返済も残る。驚くのはその額が1100万円にものぼることだ。私立大学で心理学を専攻していた。

コウリープリンスさん
「失業保険がなくなったあとが不安です。今後数年のうちに、正常な生活に戻るとも思えません」

出来ないリモートワーク

“コロナと格差”をめぐっては、もう1つ気になるデータがある。シンクタンクのピューリサーチセンターの調査で、テレワークで仕事を続けることができた人は大学卒業以上で全体の62%だった一方、高卒では22%にとどまった。

これは、感染を避けて仕事を続けられるのは学歴が高い一部の人たちで、工場や小売店など不特定多数の人が集まる場所で働かなければいけない労働者が多くいることを示している。

ワシントンで出会ったライドシェアの運転手、デビッド・ハーブさんは、ほぼ毎日、早朝までの10時間、車を走らせる。65歳で高血圧の兆候もあると言う。

1回の勤務で20組ほどの客を乗せるため、感染のリスクが伴うが、高卒のハーブさんはこう話す。

ハーブさん
「私にはアパートの中でコンピューターを操作するような仕事の選択肢はない。貯金もなく投資もしていないので、お金が必要なんだよ」

本人は仕事に誇りを持っていたが、豪華クルーザーで三密を避ける富裕層がいる一方で、厳しい環境で働き続けている人がいることを痛感した。

アメリカはどこに向かうのか

アメリカの経済格差は長年の課題であり、4年前の大統領選挙でも争点となった。中間層からの脱落を恐れた白人労働者がトランプ大統領の当選を後押しした。

ことしの大統領選挙に関連した取材では、中西部のある大学で民主党左派のサンダース氏の演説を聞いた際、学生ローンの免除や国民皆保険といった格差是正に同調していた大勢の学生たちがいたことが印象に残る。

今回、取材した失業者のコウリープリンスさんに11月の選挙でどちらの候補者に投票するかを尋ねたところ、「今の政権に不満がある」と話し始めたが「どちらの候補者も好きになれない」という結論だった。

経済格差はコロナを機にさらに拡大を続けるのか。それとも是正のきっかけにできるのか。大統領選挙を控えるアメリカに、大きな課題が突きつけられている。

ワシントン支局記者
吉武 洋輔
2004年入局
名古屋局・経済部を経て現所属

著者: ” — www3.nhk.or.jp

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仕事のニュース

トラブルの総合百貨店で学んだ「2つのテクニック」 | その仕事、全部やめてみよう | ダイヤモンド・オンライン

Riku Nakamura

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小野和俊

おの・かずとし

[クレディセゾン 常務執行役員CTO]

1976年生まれ。小学4年生からプログラミングを開始。1999年、大学卒業後、サン・マイクロシステムズ株式会社に入社。研修後、米国本社にてJavaやXMLでの開発を経験する。2000年にベンチャー企業である株式会社アプレッソの代表取締役に就任。エンジェル投資家から7億円の出資を得て、データ連携ソフト「DataSpider」を開発し、SOFTICより年間最優秀ソフトウェア賞を受賞する。


2004年、ITを駆使した独創的なアイデア・技術の育成を目的とした経済産業省のとり組み、「未踏ソフトウェア創造事業」にて「Galapagos」の共同開発者となる。2008年より3年間、九州大学大学院「高度ICTリーダーシップ特論」の非常勤講師を務める。


2013年、「DataSpider」の代理店であり、データ連携ソフトを自社に持ちたいと考えていたセゾン情報システムズから資本業務提携の提案を受け、合意する。2015年にセゾン情報システムズの取締役 CTOに就任。当初はベンチャー企業と歴史ある日本企業の文化の違いに戸惑うも、両者のよさを共存させ、互いの長所がもう一方の欠点を補っていく「バイモーダル戦略」により企業改革を実現。2019年にクレディセゾンの取締役CTOとなり、2020年3月より現職。


「誰のための仕事かわからない、無駄な仕事」を「誰のどんな喜びに寄与するのかがわかる、意味のある仕事」に転換することをモットーにデジタル改革にとり組んでいる。

  • その仕事、全部やめてみよう

    プログラマー×起業家×CTOが語る「超」効率的な仕事の進め方・考え方


    著者は、ITベンチャーの代表を10年以上務め、現在は老舗金融企業のCTO。

    2つのキャリアを通して、それぞれがどんな特徴を持ち、そこで働く人がどんなことに悩み、

    どんな風に仕事をしているのかを見てきました。

    その中で、ベンチャーにも大企業にも共通する「仕事の無駄」を見出します。


    本連載は、具体的なエピソードを交えながら、仕事の無駄を排除し、

    生産性を高めるための「仕事の進め方・考え方」を解説するものです。

◆「すべて同意! ビジネス価値創出への『5つの心構え』をまとめた決定版だ」(入山章栄・早稲田大学ビジネススクール教授)

◆「これは仕事術ではない。ゲームのルールは変えられることを証明した珠玉の実践知だ」(鈴木健・スマートニュース創業者・CEO)

コロナ禍で社会構造やビジネスモデルが変化する今、「生産性」「効率」「成果」が見直されている。そんな中、各氏がこぞって大絶賛するのが『その仕事、全部やめてみよう』という書籍だ。

著者は、ITベンチャーの代表を10年以上務め、現在は老舗金融企業のCTOを務める小野和俊氏。2つのキャリアを通して、それぞれがどんな特徴を持ち、そこで働く人がどんなことに悩み、仕事をしているのかを見てきた。その中で、ベンチャーにも大企業にも共通する「仕事の無駄」を見出す。

本連載は、具体的なエピソードを交えながら、仕事の無駄を排除し、生産性を高めるための「仕事の進め方・考え方」を解説するものだ。

Photo: Adobe Stock

 トラブルにはさまざまな種類のものがある。人間関係のトラブル、プロジェクトのトラブル、システムのトラブル、会社存続に関わる資金繰りのトラブルなど、さまざまだ。

 設立当初のベンチャー企業は「トラブルの総合百貨店」だ。ベンチャー企業はあらゆる意味で身軽で、物事の進むスピードが速い。一方で、トラブルを防ぐための機能が備わっておらず、不安定だ。トラブルを切り抜けていく中で共通して言えることが2つある。

(1)心を落ち着かせる

「やらかしたかも」。仕事歴の長いプログラマーであれば、一度や二度は血の気が引くようなミスをしたこともあるだろう。私自身も、アプレッソ設立初期の頃にそんな経験をしたことがある。

 開発の仕事をしていたときのことだ。自分のパソコンのデータベースにつないでいるつもりが、うっかりチーム全体で使っているデータベースにつないでしまっていた。手元の環境をクリーンアップしようとして、チーム全体で使っているデータベースの内容を全削除してしまったのだ。

 チーム内で利用しているデータベースなので、お客さまに直接的な影響があるわけではない。とはいえ、これまで相当な時間と手間をかけて蓄積してきたデータの入ったデータベースである。

「あれ、データが消えてる……?」

 そんな声に「もしや」と思って設定を確認したときには、もう遅かった。こんなとき、焦る気持ちから「これどうするんですか!!」とドンッと机を叩いて立ち上がって大声を上げても緊張感を高めるだけだ。

 大切なのは、まず正確に問題を把握し、関係者と共有したうえで必要な対策を検討していくことだ。慌てたところで問題は解決しない。それにチームが慌てふためくと、今後自分の仕事が原因で何か問題が起きても、怖くて言い出せなくなってしまう危険性だってある。

 だからどんな深刻なトラブルが起きたときも、いや、深刻なトラブルが起きたときであればなおさら、まずは心を落ち着かせなければならない。最悪なのはパニックになって「君はいつかこういうミスをすると思っていたんだ」「そもそもお前は普段の態度が許せなかったんだ」などと、今回の事象と関係ないところにまで話を広げて仲間割れ大会を起こすことだ。

 だからトラブルが起きたときの第一声は必ず「まずは落ち着こう」だ。



著者: ” — diamond.jp

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【海外ドラマ用語辞典コラム:第8回】映画とドラマで立場が逆転?“ただの脚本家”ではないショーランナーの仕事 : 映画ニュース – 映画.com

Riku Nakamura

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2020年8月9日 12:00

「ウォーキング・デッド」シーズン9からショーランナーに就任したアンジェラ・カンは、新風を吹き込みキャストからも大人気
「ウォーキング・デッド」シーズン9からショーランナーに就任したアンジェラ・カンは、新風を吹き込みキャストからも大人気

[映画.com ニュース] ゴールデングローブ賞を主催するハリウッド外国人記者協会(HFPA)に所属する、米LA在住のフィルムメイカー/映画ジャーナリストの小西未来氏が、ハリウッドの業界用語を通じて、ドラマ制作の内部事情を明かします。

***********************************************

映画とドラマは、尺や露出方法の違いはあれど、見世物(ショー)であることに違いはない。だが、ハリウッドにおいて物語を生み出す脚本家の立場は映画とドラマでまったく異なっている。

たとえば、あなたが書いた映画脚本をメジャースタジオが獲得したとする。でも、その脚本がそのままの形で映画化されることはほぼない。スタジオ側が人気俳優を引きつけるためにキャラクター設定を変更したり、人気のトレンドを盛り込むことなどを要求するからだ。修正作業は、最初の脚本を執筆した無名の脚本家ではなく、ベテラン脚本家に委託するのが通例だ。改稿を重ねていくうちに、監督が決定する。すると、監督の意向に沿ってまたリライトが行われる。そのうち主導的な役割を果たしていたスタジオの重役が異動となり、新重役のもとで最初からやり直しとなることも珍しくない。いつまで経っても制作のゴーサインが出ず、企画開発を延々と続けるこの期間は、Development Hell(開発地獄)と呼ばれたりする。

「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」の“開発地獄”は15年以上も続いた
「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」の“開発地獄”は15年以上も続いた

スタジオが映画製作へのゴーサインを出すことに消極的なのは、映画作りは何千万ドルも投入する大きなギャンブルだからだ。いったん製作をスタートしたら、後戻りできない。ならば、比較的少ない予算で可能な企画開発に時間を費やして、リスクの芽を摘んでおこうというわけだ。悲しいかな、ヒットを生み出すコツは誰も知らないので、堂々巡りしがちになる。

有名監督や人気俳優の参加が決まっていたり、原作モノの場合は、低リスクなのでゴーサインが下りやすい。それでも、たとえばジョージ・ルーカス制作、スティーブン・スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演というオールスターを揃えた「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」は、15年以上ものDevelopment Hellを過ごした。作品の方向について3人の意見が合わなかったためで、そのあいだにジェブ・スチュワート(「ダイ・ハード」)、ジェフリー・ボーム(「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」)、フランク・ダラボン(「ショーシャンクの空に」)、ジェフ・ネイサンソン(「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」)、デビッド・コープ(「パニック・ルーム」)といった有名脚本家たちが執筆に関わっている。完成作にクレジットされているのは、「ストーリー」としてジョージ・ルーカスとジェフ・ネイサンソン、「脚本」としてデビッド・コープのみ。このことからも、ハリウッド映画において脚本家は取り替えがきく便利屋のような存在であることがわかるだろう。

「ブレイキング・バッド」のショーランナーであるピーター・グールド&ビンス・ギリガンは「ベター・コール・ソウル」も手掛けた
「ブレイキング・バッド」のショーランナーであるピーター・グールド&ビンス・ギリガンは「ベター・コール・ソウル」も手掛けた

これがテレビドラマとなると脚本家の立場ががらりと変わる。ドラマ作りを統括する制作総指揮は、たいていの場合、脚本家が務めている。一方、各話の演出を手がける監督はひとつのドラマに複数人いて、彼らは制作総指揮の指示に従う。つまり、ドラマにおける監督と脚本家の関係は、映画と逆転しているのだ。

この違いは、ドラマの成りたちに起因している。テレビドラマの企画を立ち上げるのは、脚本家だ。自身が企画を生みだし、制作会社やネットワーク局にピッチを行う。うまくいけばパイロット版の脚本が発注されるので、ひとりで1話ぶんを書き上げることになる。そして、もしパイロット版の制作にゴーサインがおりたら、自分でキャストやスタッフを集める。つまり、企画を生みだした脚本家が、内容から人材に至るまですべてをコントロールできるのだ。そのドラマ制作を指揮する脚本家のことを、ショーランナーと呼ぶ。

「ゲーム・オブ・スローンズ」の脚本家チームを率いたデビッド・ベニオフ&D・B・ワイスは一躍トップクリエイターに
「ゲーム・オブ・スローンズ」の脚本家チームを率いたデビッド・ベニオフ&D・B・ワイスは一躍トップクリエイターに

ショーランナーの仕事は、ドラマがシリーズ化したときに本格化する。ネットワーク局のドラマは1シーズンあたり22話前後あるから、ひとりの脚本家が全話執筆するのは不可能だ。そこで、複数の脚本家を雇用し、「ライターズ・ルーム」を立ち上げる。ほかの脚本家たちとのディスカッションを通じて、全体のストーリーから各エピソードの展開を詰めていくのだ(ライターズ・ルームに関しては、次回詳しく説明します)。ショーランナーの担当は、ドラマの内容に留まらない。大量のエピソードを生産するためには、同時進行で進めていく必要があるため、異なる段階にある各話の制作状況を把握し、それぞれが抱えるトラブルに対応していく。つまり、クリエイティブとマネジメントの両方において責任を負うことになる。かなりの重責だが、ショーランナーがいるからこそ、数百人が関わるドラマ制作においても、統一感を維持できるのだ。

「glee グリー」「アメリカン・ホラー・ストーリー」などの企画・脚本を手掛けたヒットメーカー、ライアン・マーフィー
「glee グリー」「アメリカン・ホラー・ストーリー」などの企画・脚本を手掛けたヒットメーカー、ライアン・マーフィー

ちなみに、ショーランナーは制作総指揮のひとりだが、製作総指揮にクレジットされている人すべてがショーランナーというわけではない。制作総指揮には制作会社の重役やドラマの実現に関与した有名監督などの名前も載っているためだ。例外もあるが、企画を兼ねている制作総指揮が、ショーランナーである場合が多いといえる。

【今回の業界用語】
ショーランナー(Showrunner):ドラマの制作総指揮のひとりで、ドラマ制作を統括する責任者。たいていは企画を立ち上げた脚本家が務める。

(映画.com速報)



著者: ” — eiga.com

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